先輩と死体

133 :稲男 ◆W8nV3n4fZ. :2010/10/17(日) 12:50:59 ID:mtxDRcORO
『来い。早く来い。面白いから来い』
三年の春。
先輩から電話があった。
「なんなんですか。来いってどこに」
『工場。潰れた方の。すぐ来いよ』
それだけ言って切れた。
その頃、俺と先輩の距離は少し開いていた。
別に仲が悪くなったわけではないが、その頃先輩は、俺の理解の遥か外側にいたし、前年度の終わり頃、ヨーコさんとの一悶着があり、俺からすればなんとなく気まずかったのだ。
まあ、呼び出しを断る程でも無かったし、先輩の様子がおかしかったのもあって、俺は港近くの廃工場まで自転車を飛ばした。
夕暮れが街を染め、影が長く伸びる時間だった。
工場に着くと、奥から先輩の声がする。
「来たか。こっちだ。奥の資材積んである所」
建物に反響した声は、別人のモノのようにも思える。
埃の舞う工場の奥、資材置き場だった所に先輩はいた。
ピラミッドのように積まれた鉄材のてっぺんに腰かけている。
抜けた天井から夕日が差し込み、逆光になっている。
先輩の顔は良く見えない。
「先輩。面白いって何がですか」
油の匂いと海の匂い。
それから埃の匂いの中に俺達はいる。


134 :稲男 ◆W8nV3n4fZ. :2010/10/17(日) 12:53:04 ID:mtxDRcORO
「見えないか。あるだろ、そこに」
すぐそば、床に何か黒い塊がある。
じっと見ていると、塊の表面が動いた。
どこかで聞いた音がする。
ぶ、ぶぶ。
ぶぶぶぶ。
びびっ。ぶわぁん。
塊の表面をびっしり覆っていたのは、黒い羽虫だった。
蝿だ。
飛び立った数匹に釣られるように、そのまわりから次々と飛び出し始める。
嫌な予感がした。
「死体だ」
黒い塊はもう黒くない。
わーんわーんと蝿の羽音が耳につく。
目のあるべき場所は窪んだ穴があるだけ。
恐らく生前は薄く桃色だったろう皮膚は、白く、所々に青や緑の斑点が。
腐りかけた体のラインから、辛うじて、女性とわかった。
「見えただろ。どうだ」
俺は吐き気を堪えるのに精一杯だ。
「どう思う。どう見る。お前は」
吐き気を飲み込んで、先輩を睨む。
「これは冗談じゃ済みませんよ。警察に……連絡しなきゃ」
先輩は笑う。声をあげて。
「警察。警察ねぇ。これを。お前、悪戯だと思われるぜ」
悪戯?
何を言うんだ。
現にここに死体があるじゃないか。
俺はもう一度死体に目をやる。
さっきと変わらず、窪んだ穴がこちらを見ていた。


135 :稲男 ◆W8nV3n4fZ. :2010/10/17(日) 12:55:07 ID:mtxDRcORO
「警察が動くのは人間の事件だ。死んでいるのは、猫じゃないか」
はっとして先輩を見る。
相変わらず逆光でシルエットしか見えない。
再び、視線を下におろすと、そこに転がっているのは女の死体……ではなく、黒い猫の死体だった。
「お前にはどう見えた。男か、女か、大人か、子供か、綺麗な死体か、腐りかけた死体か」
また、吐き気がした。
「ここは別に霊場じゃない。だが、正気の境界線だ。お前にはどう見える。まだ人か。それとも猫か」
不思議な感覚だった。
猫を見ていると同時に、女の死体も見ている。
二つの存在が重なって、そこにあるような。
「一度でも人に見えただけで、お前は有望だ。さて、どう見えるのが正気で、どう見えるのが狂っているのか」
わからない。
目眩がする。
シルエットの先輩が高笑いをする。
「面白いだろう。お前は知らず知らずそこに立っている。選ぶなら今のうちだ。どちらに倒れるか」
先輩の声を背後に聞きながら走る。
工場を出て、自転車に跨がり、全力で走る。
先輩の狂ったような笑い声は、工場に反響して、まるで別人のモノに聞こえた。
夕暮れ、影は長く伸びて、夜がくれば闇に溶ける。
先輩に、夜が訪れ始めていた。

先輩と死体 終
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